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ガンヲタならば読むべし!アドラーの心理学から見るガンダム世界の共同体感覚

 

ヲタも広く浅くの雑食主義ではありますが、読む本もこのうえなく雑食な性格のねじです。
先日までポケット詩集を久しぶりに読書していたのですが、今、楽しく読んでいるのは心理学書です。

 

30代女子
30代女子
は?心理学書?
心理学って何が書いてあるのだろ?
30代男子
30代男子
精神分析者のフロイトの本を読んだけど、なんかちんぷんかんぷんだった思い出があるな。
読んでいると納得はしてくるんだよ、自分の中の気持ちとの共有で『あぁ、やった、やった』って。
でも、もう、10年以上前に読んでいるからなぁ・・・
30代女子
30代女子
・・・なんでそんな本読んだんだ?
(聞いてて面白そうには感じないのだが・・・)
30代男子
30代男子
ぇ?あぁ・・・多分、アルジャーノンに花束をアルジャーノンに花束をの影響じゃないかな?
そのあと24人のビリー・ミリガンビリー・ミリガンと23の棺と、解離性同一性障害者の本を読み続けた時期があったから。
30代女子
30代女子
・・・厨二病以外、何かあった?
30代男子
30代男子
・・・いや、多分永遠の厨二病患者だと今は悟ってる・・・

 




アドラーの心理学は面白い!推しガンダムシリーズを見た後、読んでみよう。

 

自分が今読んでいるのはこの本です。

文章としてはアドラーの心理学の講演をしたことがある先生と、3年前に先生のアドラー心理学講演を聞いて惚れてしまった中学校教師の対話です。
なんかね・・・この中学校教師のセリフがですね。
質がいいんだけど口が悪いシンみたいで、結構笑える。

講演経験のある先生がひたすら説法をするんだけど、それに対してひたすらシンが反論する。
そんな内容です。

このブログサイトはガンダムSEED系ですので、SEEDの世界に照らしてざっくり本の内容を説明していきましょう。

 

ざっくりと説明するとラクス・クラインの精神。

 

これですね。
これ以外ありませんね。

コーディネーターだろうと、ナチュラルだろうと、ましてやハロやオカピのような機械ロボだろうと。
彼女の前では全て平等なのです。
一瞬『ウソだろ・・・』と、絶句するような突飛な考えを発信しますが、それは一つの命に対して彼女からしてみれば尊敬に値するものだからです。
(戦場で敵を殺さないでくださいね・・・それはバルトフェルトじゃなくても高度すぎるお願いのひとつ。)

別にアドラーの心理学を話す為なら、ガンダムじゃなくてもテーマは良いのです。
他のアニメでも語ることはできます。
ただ、戦いというコンテンツが含まれているので、アドラーの心理学を投影しやすい土壌が整っていること、他のガンダムシリーズでも語れると思いますが、2作品共通して嫌味なほどにぶれていないラクス・クラインを中心とすると、理解がしやすいというところです。

 

ところでアドラーとは何者?

 

心理学者として有名となったアドラーは元々は医者です。
ただ、幼い時に自分が病気で苦しんだこと、医者になってからは遊園地の曲芸師を患者としてみているうちに、努力によって劣等感を抱いている場所は改善する、もしくはそれ以上の能力で逆に活かすことが出来るようになるという事に気が付いてしまう。
これがアドラーの補償理論の原点となり、ここから彼の個人心理学の基礎が始まっていく。

第一次戦争後の社会復興のひとつとして教育改革に従事したときから、多くの教育、医者、心理学について交流をもつことになり、それらの考えを発表して行った。
彼の著作本に子どものこころのなりたちや、問題児への対応の本が多いのはこの時期の経験や有識者との議論による結果が多かったのだと思う。
彼は自分が得た知識や考えを惜しむことなく、一般の方々に対して精神医学や心理学の知識を話し、子どもたちの精神的な健康のための革新的な考え方を伝えて行った。

アドラーは心臓発作により突然亡くなった。
しかし、彼の考えた個人心理学は多くの人が引き継ぎ、日本でも彼の考えを訳した本が出版されている。

 

ねじとしては読んで欲しい。自分と自分の将来を豊かに過ごすためのアドラー心理学の本。

 

大人が繰り広げた戦争に対して、無秩序に傷付いた子どもの心を癒そうと考える人間は多かったのではないだろうか?
第二次世界大戦に至る僅かな期間ではあったものの、アドラーの行動は日本との子育てとヨーロッパにおいての子育ての考え方において違いがあるように個人的には思います。

このブログサイト管理人のねじはリアルに子育て世代です。
自分が育てられた時は、いわゆる虐待と呼ばれるもの、叩かれたり、立たされたり、正座・・・それらの体罰は家庭内にも、悪いことをした子どもを怯えさせる存在として影を潜めていたのは事実です。

根拠ない自己分析で考えると、第二次世界大戦期において徐々に軍国主義が一般の人間の生活に浸透、その後の日本国敗戦、戦後の混乱ではまだ暴力が一次権力として頂点にたってしまった世界が作られてしまった。
力による統制というものがあまりにもわかりやすく単純な構造のため、個々の家庭にも浸透しやすいものであった。
また、スポコンアニメなどによるアドラー心理学でいうを味わうことにより、一定の体罰が了承される世界が間違った認識の元作られてしまったのではなかろうかとも考えます。

『親にもぶたれたことがないのに!』
という、アムロ・レイのセリフには、当時羨ましいぐらいの思いもありました。
(ただ、今思うと、アムロの家庭の場合はそれだけアムロに無関心だったのではなかろうかとも思う。)
今、このようなことをしたら愛情ある体罰と訴えたとしてもレッドカードとなります。

だいぶ脱線させたので元に戻しましょう。
なぜ、子どもへの虐待と呼ばれる行為が無くならないのか。
虐待はしているが、そこには愛情が一遍もなかったのか。
少なくとも、子どもが生まれて育てる最中の1回もかわいいと思わなかったという方はいないと思います。

自分はこのアドラーの心理学の本を読む前に、幸いにも自分の中で解決方法を見出したので悩みすぎる沼に落ちることはありませんでした。
その時に至った対処法はひとつだけ。

子どもとしての人格を尊重すること。

 

これはストレスがかなりかかります。
たまにどうしても限界がきて、やっぱり怒ってしまうこともあります。
でも、子どもの立場にたつとそれが悪いことなのか良いことなのか判断は尽きません。
その善悪を植え付けるのは親なのです。
しかし、善悪を植え付ける親側は、実際にそれが良いこと悪いことと理屈で説明できるものでしょうか。

1つの例として聖徳太子を取り上げましょう。

私が歴史を学んだ時はその絵は聖徳太子と答えを書かないといけなかった。
しかし、今はその絵が聖徳太子ではない、ましてや、聖徳太子など存在もしなかったという説も出てきます。
天皇をという血統を無二の存在として認識させるために、後世歴史の改編を行われたのかという話もあります。

このような例は地方の伝統的な食事や食べ合わせにも、科学的な根拠がないのに良いもの悪いものとして、ひとつの考えが植え付けられていることにも繋がります。

 




尊敬という行為を実践する。誰もができること。

 

一方的に怒ることではなく、個人の意見を話して同調してもらうことを着地点として会話をしていくと、自然と相手の考えを聞かなくてはならなくなります
もちろん、自分の意見もしっかり伝えます。
自分とは異なる意見が出てきた場合、なるほどそういう方向からのアプローチがあったかと新たな手法を知ることに胸をときめかせます。
そうです、ときめかせるのです。
否定してはいけません
そのときめきを一瞬でも作ることが、のちに相手を尊敬するというという気持ちの発展に繋がっていくのです。

 

相手を尊敬することで相手のパーソナリティを保護することになります。

 

職場での対人関係でパーソナリティを保護することは、自分の意識下でコントロールすることで可能とすることはできるでしょう。
でも、子どもとなると相手が何も知らない故に自分を優先順位の高い位置に置きたくなる
そこには尊敬という気持ちが生まれづらくなります。
思春期になって、自分の考えが押し付けられなくなった時に尊敬をいう切り替えスイッチを行使しても、相手がそれに急に応じるとは考えにくいです。
今まで構築された親子間と違うフェイズに移った(例えば、子として接していたのに大人として接し始めた)ことで、子は逆に不安になり反発を繰り返すこともあるでしょう。

 

これらの行動は対人関係でいつでも発生するひとつの事案です。

 

相手を尊敬するという行動は、特段難しく考えることではありません。
混んでいる電車に座っている。
優先席に該当する方が目の前に立った。
どうぞと言って席を譲る。

その行動と表面的には変わりません。
あなたの意識としては優先席マークに描かれているひとだから譲ろうという、ルール順守なのかもしれません。
でも、相手からは自分のことを認識し、保護してくれた・・・該当に足る言葉といえるかわかりませんが、瞬間でも尊敬という感謝の念が生まれたには違いありません。

相手の存在を認めること、感謝から相手に尊敬という思いを発すること。
漢字で書くと敬うという意味の漢字が入っている為、間違いを犯さない絶対神じゃないと尊敬すべきではないと思い込んでしまうかもしれません。
しかし、尊敬=respectとするとその意味は広がります。
尊敬すること敬意を表すことは漢字と同じ意味ですが、配慮すること気遣うことはとても身近にできる行動ですよね。

相手のことを気遣う行動を心掛ける=尊敬として、普段からの行動のひとつに追加することからまずは行いましょう。

 




SEED世界より。劣等感から発展したコーディネーター技術、溝が埋められない優越コンプレックス理論。

 

我々は人間であり、この世界に住んでいる限り、人間関係の悩みをまったくのゼロにすることはなかなかうまくできません。
相手が年上だろうと、同年代だろうと、年下だろうと・・・
尊敬するということは何かしら自分の中にその相手との異物感、劣等感を見出してしまうことに繋がります。

でも、考えてください。

異物感や劣等感を持つことが、自分としての個体を維持しているのです。
だって、まったくの同じ共感ばかりだったらどこで、貴方と他の人間との識別を行うのです?

異物感や劣等感は自分の弱点を補おうという意思によって、一定の範囲は補償できるとアドラーは発見しています。
その考えがさらに発展し、

人間は常に、理想の状態を追求(優越追求)している。しかし、それが到達できない自分について劣等感を覚える

という理論(優越コンプレックスの理論)という結論をアドラーは出しています。

これをコーディネーターの誕生に結びつけると至極簡単にパズルのピースがはまりますね。
病気のしない体、人間という機能を最大限に活用できることを目的とした遺伝子改造
これは優越追求を目指した人類が辿り着いた科学技術の結果でした。
しかし、これは身分関係なく全員が等しく体験できるものではありません。
今までは同じ人類として、人種による身体的な能力の差異はありました。
でも、この遺伝子技術、コーディネーターになること・・・はそれすらも過去に置いていく、発展した技術なのです。

人として生まれてしまってからは受けることが出来ない、親からの選民的な待遇が受けられない人は優越コンプレックスの理論が発動し、絶対に到達できない劣等感が遺伝子を弄らずに生まれたナチュラルにおいて広まった。
これらは共同体感覚として世界中に伝播し、争いを生むことに繋がります。

 




SEED世界より。『アスランはアスランでしょ』共同体感覚と親子関係

 

アスラン・ザラのキャラクター設定のひとつとして面倒見が良いと言うことがある。
他の言葉で言うとお人よし。

そんなアスランが軍人となった理由は潜在的なお人よしだったと言ってしまえば終わりなのですが、軍という組織で共同体感覚を身に付け、更に親子の絆に愛情を重ねて勘違いしてしまったことが自己崩壊を招いたのではないかと思います。
アドラーのいう共同体感覚とは、

こうすることにより、自分の利益ばかりではなく、相手のためにもなるのではないだろうか

という気遣いの心です。
カガリに『生きることが戦いだ』と絶叫されて気が付くほど、自分の生を放棄することにより、相手の生を助けられるのでは、戦争を終わらせられるのではないだろうかとまで思ってしまうアスランは、共同体感覚が頭の先から足の爪まで染みわたっています。
さらにここでアスランはアドラー心理学の重要コンテンツである、劣等コンプレックスも発動させます。
戦争を拡大させた父親の子どもという劣等感を最大限使い、生きることの放棄を望みます。

これらは本来の性格・・・いや、もしかしたら、父や母の仕事が忙しいから自分のことは自分で行うことで、二人の助けになるのではないか、そうしたら父にも母にも褒められるだろう・・・という幼児期からの生活経験から共同体感覚が、アスランの意思とは異なり、褒められることと引き換えに育成されてしまったのかもしれません。
褒めてもらうことで自己を確立するライフスタイルだったアスランにとって、父も母もいないこの世界で何を支えに生きればよいのか瞬間ためらわれたのではないかとも思います。

あくまで想像ですが、軍人になったアスランは無意識下の父に褒められたいという思いを持ったまま、共同体感覚を発動させて戦禍に飲み込まれていきます。
キラと出会ってもその感覚は衰えることはありません。

一方、共同体感覚は持っているものの、さらに個々への尊敬の念を惜しみなく使うラクス・クラインにとっては、個を排除した軍人としてのアスランに苦言を呈する。
元々、ザフト軍自体、コーディネーターという個々の能力に頼っている戦闘が主流である。
階級主義の地球連合とは異なる命令系統である。
フェイズとなったアスランは本来なら、共同体感覚の元、自由に動けるはずである。
しかし、彼の命令系統が特殊な為、それに狂いが生じる。
上官が父親ということ。

父親という感覚を抜いてしまえばよいはずなのに、アスランは逆にこだわり続けた。
それは彼が育てた共同体感覚の芽となった父と母に褒められたいということ。
この精神から芽生えた共同体感覚なので、アスランにとっては父の呪縛から離れることができない
父が良いことを行っているのか、悪いことをおこなっているのかも判断ができなくなった状態となり、自分の意見をラクスに求められ、自分が何者なのかを考える時を迎える。

『アスランはアスランでしょ』

失ったものへの後悔をひたすら閉じ込めてみないようにしていたアスランは、自分に向き合わなくてはならなくなるのですが、彼は父親に撃たれても、実際は父親が死ぬまで父親とのタスクを続けていたのでした。
父親・・・パトリックの方は、親子としてよりも軍としての人間としか始めから見ていなかったのかもしれません。

でも、これって日常的に過ごしているとこの壁はたまにぶつかる時があって。
子離れできない親親離れできない子という感覚。
自分にもいつか訪れる時がくるので、自分に問う事もありますが・・・
親が子離れしてくれそうもないので、自分の意識感覚では乗り越えられないものもあるんだなぁと悩む事もありますね。

長くなってしまったので、運命でのアスラン共同体感覚復活については今回は止めておきます。
(正直なところ、頭使いすぎてちょっと疲れてきた)
結果としてミネルバ主要クルー自体がそれぞれに血のつながりに愛情を求めていて、せっかく個としての自分が出来てきたアスランだったのに、泥のようにはまって行った話のように感じています。

日本って島国だし、ほぼ単一民族に近いから血のつながり的な要素がクローズアップされやすい気がする。
気のせいかもしれないけれど、日本は映画誰も守ってくれないが日常的に行われているような気がする。

 




まとめ 尊敬という勇気をもとう

 

最終的にはアドラー心理学の根底はここかなと思います。
この本には

と書かれています。
それは1人の行動が周りに波紋のように広がることを伝えているのですが、自分としては尊敬するという勇気を持つこと自体が一番必要なのではないかなと考えます。

自分よりも目上の人を尊敬するのは簡単です。
でも、その方の行動に自分だったらやらないのにという事例が発生しても、あなたは尊敬できるでしょうか?
いくら英語に変換して、配慮だから気遣いだからと自分に言い訳するように相手を尊敬する。
それって、強い意識、ある意味勇気がないと出来ない事です。

それは血がつながっているからという理論とは別の次元です。
アドラーの心理学では愛のタスクとして永続する人間関係と示されていますが、血がつながっているから尊敬しないというカテゴリーに当てはめてはいけません
血がつながっているからこそ、一番身近な存在として尊敬の念を与え、個としての存在を自覚し、自立を目指してもらうのです。

とまぁ、こんなにアドラー心理学についてガツガツ書きましたが、自分は心理学専攻ではありません。
専門家がみればあちらこちらに綻びがあるかと思いますが、アドラー心理学を知って欲しい、一度は読んで欲しくて書いてしまいました。
そんな情熱の一記事です。

あしからずご容赦ください。

 

 

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